昭和48年9月6日 夜の御理解
和賀心にあると、ここへ参ってくると、その和賀心が頂ける。和賀心というのは、これはあの和らぎ喜ぶ心という意味ではなくて、はあおかげ頂くぞと、おかげ頂けるなあ、そういう心が心に生まれてくる。その心がおかげをキャッチするんです。ね、どうしてもお取次を頂いて、お参りをしてお取次を頂いて、御理解でも頂かせてもらうと、おかげ頂けるというその和賀心が非常に強いものに、純粋なものになってくる。だからおかげ頂くのです。
昨日、福岡の、んー福岡のあの方、えー五、六十人から従業員の方がおられるその中の1人の方が、結婚詐欺のようなものにあって、まあ脅迫されて150万からの金を要求されて、昨日の言葉に、今日の1時から向うとこちらの親戚の方たちと話し合いがあると。もう堂々としてその、若いせいね、25歳の青年の方を連れて、その主人の方が参って来たんですけど。その方は前に、ある教会で、もうご両親でしておられて、そこのご普請が始まる時に、そこの先生が金を一千万、ちょうどアパートかなんかを売られたんです。それでお金が返ってきたらそこの先生が、あんたがたんその金をこちらの方へ教会の方へしばらく回してくれないかと言われるものですから、まわした。それが問題になって、えー先生ととうとう不仲になって、もうその教会には参るごつないちいうわけで、あるその重大な問題でお伺いに半年くらい前にいっぺんみえたんです。なかなか熱心なご信心をしておられたらしいですけれども、現在は参るとこがなしに、もう家で一生懸命拝んどると言う風な方なんです。それでその時のことがもうそれこそ鮮やかにおかげになったわけです。ここにお願いにみえて。それでまた昨日みえたわけです。そいでようなる時ばっかりこの人がお参りをしてきて、というて実はまた、大変な問題にぶつかったからというて参ってきとる。そいで私そのことを今の、150万も用意だされているというそのことについてのお取次をさせて頂いたら、心配はいりませんよと。例えばお取次を頂くということは、あの真っ暗い中に、あの、灯篭に光を入れるようなもだと。だから真っ暗い時には恐いけれども、灯りがついてからと言うのは心配いらん、もう明日は心配せずにしばらくはいざこざがあろうけれども、おかげになるよって言ったら、もうそれこそ本当2人の者が、はあこれはお参りしたかいがあったといいわんばかりしてから喜んで帰った。ああいう心がもう今日はおかげ頂いとるです。
ね、今日も萩の石川さんがお参りしてきて、奥さんがずっとこう、足がリュウマチのなんかこう、足がこう座られん。なかなか学校の先生でもう理屈ばっかりいうちから、そのいうことばきかん。石川さんはもう大変熱心に、今萩の教会の信徒会長もしてあるし、まあいろんな問題は教会のことまでをここに持ってきてお届けをされるんです。でその家内についてのその、もうとにかくこの頃、まあ痛がって難義しとりますからというお届けでした。だからあの、頼む心、一心に頼む心があればおかげになると神様はおっしゃる。けれどもいくあさ一心に頼む心がないし、またその御理解を頂いたときは、はあこれは一心にお願いをするという気になっとりゃあおかげになるとですよ。けれども、それを純粋に受け止めきらんのです。
これも今日、福岡の田舎の方から参ってくる方なんですけども、娘さんが結婚し、結婚の問題。ある方、ある若い者同士の交際があっとるけれども、男の人がおとなしくて、その自分の両親にその結婚のことを話しきらんでおる。だから相手はよい、どっちでもよい、もうここからもらわれんなら親もやってもよい位なんだけれども、御神意はどうだろうかと、前来た時にはお伺いしとった。それは、んー御神意は悪くないよということであったが、そんなわけでありましたが、今日も、んーそのことを心配してからお願いに見えた、お母さん。たらこう小さい苗がはえとるとに、あのジョロですかね、あれでこう水をまいてるところを頂いた。たとえば良い芽がでる、もし信心がなかったら、お取次を頂かなかったら、これは枯れてしまう。だから、おすがりさえしときゃ、この芽は伸びて花が咲いて実が実るんだ。だから心配せんでほっときゃあいいよということを頂いて、もうそれそ胸なでおろしてかえる、それがおかげになるんだ。ね。今日は秋山さんとこの悦子さんが、いつもここでお母さんと出会うんだけれども、お母さんが今日は四時頃からしかお参りがでけんというので、まあ淋しそうにしとった。それで私がここで、んー今のその、今の話をいくつかさせて頂いた。問題はおかげはね、悦子ん、自分の心だよと。ここでお参りをしてくる、はあおかげ頂く、こういう心が頂けたときがおかげを頂けた時。お参りはしよるばってんからおかげ頂っきるじゃろうかちいうたごたるふうで、こげんしてまいってきたっちゃおかげにならん。だから、しげしげとお参りしているうちには、どういう鈍感な人でも、ピンとなんかくるものがある。はあこれはおかげ頂くばいというような心が生まれてくる。どんなに素晴らしいよいお取次を頂いて、どんなにはっきり頂いても、例えば明日のことは心配はいらんよ、お取次を頂くということは、ちょうど灯篭に火を入れるようなもんで、あたりが真っ暗だったところが明るくなるようなことだから、恐いことはないよ、頂いて、っとこう胸なでおろすような心、その心がおかげ頂くのだ。ね、例えば石川さんのところの奥さんの、まあこれは難病ですけれども、ね、頼む心があればおかげになると頂いた。さあ医者じゃ薬じゃ、かかっちゃならんじゃない。最近私が思うことは、もう本当にあの祈れ薬れということは、あのお願いをし、神様にお願いをして、医者にかかるとか、ね、薬を飲むということじゃない、祈れ薬れということは、お詫びをして薬を飲むのだ、お詫びをして注射を打ってもらうのだ、お詫びをして医者に手をにぎってもらうのだ。なぜかというと、こんな不自然なことはないからです。薬とか注射とかということ。だから、そこの病気に例えばよし効いても、他んところに必ず薬害というのが、目にはわからん、体には感じないかもしれんけれども、その薬害というものはある。だから、本当に自然の働きを、これに受けられる和賀心をつくっておかげを頂いたが一番。それでも痛ければ、かゆかれば、ちょっとこうかゆみ止めを、ちょっと痛み止めを飲ましてもらうたり、注射をうったりするけれども、それはだから詫びなければいけない。祈れ薬れということは、詫びて薬れということになかにゃいかん、詫びて願う。お詫びして薬を頂くのだということになりゃあ、おかげもあるがとおっしゃるそのおかげがあるのだ。ね、とにかくその御理解の頂きとめ方がね、はあそうじゃろうと思う心がおかげ頂くとです。お参りしてきてもお参りしてきても、したんところで(マスターテープの末尾切れ)
池尻てるか